大祓ってな~に?

〈第一章・国家行事の大祓〉

 祓は今日、どのような神事の前にも必ず行われる儀式である。その始まりは、古く『延喜式』の時代までさかのぼることができる。国は毎年6月と12月の晦に大祓を行い、半年間の罪、これから起こすであろう罪を祓う儀式を行った。これは天皇から官人、国民にいたるまで行う国家行事であり、罪を祓う又は未然に防ぐことで国家を安泰にしようという考えがあったためである。罪を祓う際には家や村、郡、国に贖物という物品をださせた。これを出すことで罪が祓われると考えられていた。この思想は『古事記』にも神話として登場する。スサノオノミコトが姉であるアマテラスオオミカミに対して無礼を働き、アマテラスオオミカミは岩屋戸に隠れてしまうという話は有名であるが、この岩屋戸の話が終わったあとにスサノオノミコトは自らが起こした罪を祓うため、自分の髪やつめ、宝を出している。これが祓のもとの形だと考えられている。

 しかし、時と共にこの祓に対する意識が変化してくるのである。祓は次第に罪だけでなく、穢れも払うとし国家的儀式だけでなく、私的な祈祷にも用いられるようになる。

 祓はもともと、罪を祓うものであったが次第に穢れをも祓うものとなっていく。また、延命長寿や病気平癒、安産の祈祷にも用いられるようになった。それらの祈祷を行ったのが僧侶と陰陽師である。

〈第二章・僧侶、陰陽師も行っていた祓〉

 平安時代後期になると私的な祓が登場するが、これを担ったのは陰陽師と僧侶である。「大祓」や「大祓詞」が神道的な要素をもつにも関わらず、なぜ陰陽師や僧侶が祓を行ったのか。これにも穢れが関係してくる。国家的な行事として祓を行うのは神職の役目であったため、神職は穢れに触れてはいけなかったのである。神職の勤めは国家のために祈祷を行うことであり、個人的な祈祷は一切行わず、潔斎をし正常な状態を保つことが望まれていた。しかし、天変地異や疫病、穢れの意識が変化したことで、清祓という穢れを祓う儀式が数多く行われるようになる。しかし、神職は穢れには触れてはいけない、となったときに台頭してきたのが陰陽師であった。かれらには穢れを忌む必要もなかったため、適任とされ、国家行事における祓も担うようになっていった。また、貴族に私的な祈祷の需要がでてきたため、それにこたえるようになり、次第に僧侶も行うようになる。

〈第三章・国学者による祓研究〉

 近世に入り、国学が登場すると、中世までに行われてきた僧侶による「中臣祓」の解釈が否定されるようになる。僧侶たちは自らの信仰と結びつけるかたちで「中臣祓」に注をつけ、仏教の経典の一つとしていく。国学者たちは、仏教が入ってくる前の学問や思想が日本のもともとの姿であるとし、仏教色を廃しようした。僧侶によって注釈がつけられた「中臣祓」は本来の姿ではないとし、古典に基づいた文献学的検証を行い研究を始めた。そのなかで、次第に自らの思想と結びついていき、数多くの思想書や解釈がうまれた。

 また、この時期から茅の輪をくぐるという今日の茅の輪行事が始まったとされる。大祓は蘇民将来の民話と結びつき、疫病除けの祇園祭、延命長寿を願うものとなった。この思想も中世の僧侶たちによって付された思想であるが、清浄を好み穢れを嫌う日本人と相性が良かったということもあり、人々の願いを受けながら変容していったのである。

〈第四章・近代の祓と研究〉

 近代に入り、「国家の宗祀」として国家により管理されることになった。国は神社で行う作法や神様に捧げるお食事である神饌を規定し、全国で統一した。この際に、祓も新たに規程される。明治8年には国が特に重要だとする神社(官・國幣社)を中心に、その神社の例祭(一年で最も大きな祭)で祓を行うことが規定された。明治40年には祓を修祓とし、大麻を左、右、左と左右に振る動作が加わる。大正3年には大祭式(神社の中で大きなお祭り)で修祓をするようになる。また、キリスト教の普及を畏れた国は神職や僧侶を教導職とし布教活動を始めた。これによって、神道の体系的な思想が必要となった。加えて、神職の世襲を廃止し、国が重要視した神社を中心に神職を退職させ、新たな神職を充てたことで、神職の養成が課題となり、初学者でも理解できるような解釈や参考書が多く誕生する。

〈第五章・現代の祓〉

 今日も大祓は行われている。賀茂御祖神社では、古に則った儀式が今日も行われており、人形は銀製であり、斎串が用いられている。古代の儀式では麻を引っ張ることで麻に穢れを移し祓うという信仰があり、斎串は古代の信仰を今日に残しているといえよう。

 現代のお寺で「中臣祓」を用いて祓を行うことはなくなったが、二月堂修二会では現在でも「中臣祓」が行われている。これは非常に珍しい事例である。

 

 また、大祓と結びついた蘇民将来の信仰として、木彫りのものとしめ縄のものが存在する。木彫りのものは各地域に伝わっており、お寺でもお守りとして受けることができる。しめ縄のものは伊勢志摩の地域でみられるもので、しめ縄と蘇民将来が一体となっているものである。この地域では一年中しめ縄を家の玄関に祀っておくという。